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2013.3.13

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創業の想い ‐ 私の2011年3月11日体験 ‐

2013年3月11日。
 
東日本大震災から2年たった日。
 
今日、私はあの日、大きな被害を受けた仙台駅を使わせて頂きました。理由はお仕事で携わっている企業さんのお打ち合わせにおいて、経営的視点からバックアップをさせて頂くため。
 
きっと、2年前はいたたまれない状況であっただろう東北も、皆さんの強い気持ちで1歩1歩前へ。そんな場所へ、今なぜ訪れているのか、自分の起業の原点を想い出さずにいられませんでした。
 
2年前のこの日。私は今と同じようにとある企業さんの国際事業開発のプロジェクトに経営コンサルタントとして携わっており、インドから日本へ戻ってくるANA便で、東京湾上空を15:00 ごろに通過していました。
 
成田空港への着陸予定は、15:30くらいだったと思います。
 
インドでの仕事に想いを馳せ、日本へ帰ってから何をすべきかアクションアイテムを考えている最中、機内でアナウンス。理由は分からないが現地の状況により成田国際空港が閉鎖されているので、関西国際空港へダイバートすると、機長からのアナウンスを受けました。
 
え!!関西空港!!!って、、、、もう1時間近く前に通過したところにまた戻るのか!!!
 
それに1週間、インドに行った帰りで、ヘトヘトなのに東京の家に直帰出来ないのか―!どうやって東京に戻るのよー、、来週もプロジェクトの打合せが色々あるのにっ、洗濯とかまとめ睡眠とかっと。。。
 
日本列島で何が起こっているのかも知らずに、現実的な問題と自己都合的な反応と感情だけが心をよぎっていました。
 
17:10頃、私達の飛行機は、関西国際空港に到着し、成田に到着する筈だった飛行機が、関西の国際線ターミナルに。結局、乗組員の皆さんも、何も情報がないということで、上空では着陸次第、管制塔及び地上乗務員と交渉すると言われていた処遇もほぼなにも交渉されず、ただおろされ、紙ペラ1枚、東京までの交通費支援の手続きだけが渡されました。
 
明確なソリューションもなく、不安のまま、地上に降り立つと、、、同じ飛行機の方々が、すぐに携帯電話でワンセグを立ち上げ、そこに映った映像はどの局も燃え盛る千葉の湾岸エリアの映像。
 
そう、津波が東北に押し寄せた時のタイミングでしたが、現場は混乱していて、まだ映像は地上波に必ずしも飛んでいなった。
 
急いで東京の家族に連絡するも、電話は繋がらず、自分の生まれた場所、幼少期の育ちであり、親の実家である和歌山県、高野山のふもと街に住む、親戚へ電話を入れ、とにかく、インド帰りのトランクを抱えて、和歌山の家へ退避しました。その間になんとか、両親とも連絡がつき、色々ありながら、難を逃れたことが分かり、家族全員無事で。
 
会社の自分のチームの電話にもコールを入れて、スタッフ全員の安否と状況を確認。東京とは言え、海沿いにあるオフィスで、みな不安におびえているようでしたが、気持ちを確かに、身も安全で仕事に挑んでいる様子で、ネットワークのトンネルの向こうから聴こえてくるひとりひとりの声に、みな出張帰りの私を想い、「大丈夫です、むしろそちらは大丈夫ですか?」 と言いながらもとても不安そうな声に、ただ、早く安心した環境に移してあげたい、家族の元に帰してあげたいとしか思えなったった。
 
一方の私はというと、インドからのパンパンなトランクと疲労を抱えながらも、余震すらほとんどない紀伊半島のど真ん中に、南海バスの空港リムジンバスで、何事もないただの平日のある1日のような環境の中、自分の生まれ故郷であり実家に向かっていました。みんなが恐怖におびえているのに、何も助けてあげられない、、、そんないたたまれなさで、ひたすら東京へ電話をしていたのだと思います。
 
インドを出る時に全く予想していなかった帰国後のシーン。小さい頃、祖母に温かいミルクを貰ったり、自然の中で駆け回った野山の街に戻り、ただ何も出来ないまま、テレビで東北の映像や、福島の原発の映像を見て、自分の無力さをつきつけられながら、やるせない無情の気分にさいなまされながら、どうしたらいいのかを、考えずにはいられませんでした。
 
答えはすぐに出なかった。
 
でも、自分が失いたくないものと大切なモノははっきりした。
 
それが私の2011年3月11日体験。
 
東北をはじめ千葉まで、沿岸部で起こったことをおもえば、目に見える被害という意味ではまったくなかった、取り上げるのもおかしい程の体験ですが、なぜか多々の海外出張をしながらあの日に限って。しかもあの日、日本に戻ってきた多くの航空機がダイバートされましたが、国内の空港では一杯になり、台湾や韓国の空港にダイバートされた航空機も多かったと聞きました。それにも関わらず、私は関西空港へ。なぜ関空だったのか。ありがたったけれども、図らずしも、自分の起点へ。
 
正直、生まれの地、和歌山県へ戻ったのも、日々の仕事の多忙理由に、実に何年ぶりかのこと。
 
自分の人生の宿命、ライフワークとすべき仕事、ミッションを強く呼び醒まされました。
 
今、私は引き続き自分の能力と経験を活かして、経営コンサルティングの仕事をしています。
 
しかし、大きく変わったことは、自分で会社をやっていること。
 
そして、仲間と共に、なぜか自分の原点である紀伊半島の中心部、奈良県十津川村の活性化にボランティアに近い形で関わっていること。
 
そして、コンサルティングのお仕事でも、東北を代表する河北新報さんという素晴らしいメディアさんのお仕事に携わらせて頂いているということ。
 
奈良県十津川村も東北地方も2011年に、大きな自然災害の被害を受けた地であり、共に再生と発展をテーマに頑張っている地。
 
未来は誰にも分かりませんが、確かなものは、私達が何を大切にしたいと想うかという人間の気持ち、想い、感情、人生を経た中で生みだされたメッセージ。
 
私達は「新規事業」の創造、新しいビジネスのパッケージというアウトプットにのせて、多くのお客さまに「心」をお届して行きたいと想います。
 
全ての人間の、そのひとりにしかない個々の力を見出し、活かし、経済を回し、企業を育て、東北の、日本の、世界がより活発に、明るい社会に創造されますよう。
 
私達の創業の想いであり、ただひとつの願いです。
 
 
代表取締役
三木言葉